大学で学びたいことの筆頭に哲学があった。
理系学部だから、専門科目として受ける事も、無い。
教養部の哲学の講義は唯一の授業だった。
そこでは、ギリシャ哲学を学んだ、指定の教科書がなかった。
いまなら、シラバス(学習計画)があるが、その頃は、講座名と200字程度の概要しかない時代。講義がどう進むのか、毎回次の講義の題目だけが語られ、次を予想する程度だった。
講義の内容は、毎回、よく考えさせられる内容でだった。ノートはそれほど取る必要もなく、哲学的に考えることを講義を聴きながら行う。良くできた講義だった。講義は、一環してギリシャ哲学によるものの見方だった。
ところが、最終講義の最後にいままでに無く熱く語り始めて紹介されたのが、禅の公案集として有名な「無門関」であった。教科書の無い哲学の授業で唯一紹介されたのが、「無門関」だった。しかも、ギリシャ哲学から、いきなり禅の本である。この本は、人生を変えるとまで言われた。哲学の講義の最後の板書が、大書された「無門関」。そこで、講義は終了した。
あれほど熱く語られるので、書店でさがす。大きな書店3軒を見て回る。4種類ほどあった。その中の1冊を購入。読むが、意味が通らないことばかり。2、3、ああと思えることもあった。
大学では、茶道部に入っていた。後で、分かったことだが、あの哲学の教授は、一度も部活に顔を見せられたことが無かったが、茶道部の顧問でした。
翌年、私は、茶道部内に学習サークルとして、禅を学習するサークルを作り、「無門関」の公案を1ヶ月に1公案づつ学習することでこの本を読み進めました。
昨日、とても活動的な高齢の女性と話をする機会があった。5年つづけることで、ボランティア活動が大きな輪になって、ゲストで出演していたコーラスグループの方たちが、今年は、本気モードになったとのことだ。いろんな方達を本気にさせる、ぶれない活動の秘訣は、判断を「勘」にまかせることとのこと。
哲学の講義で、「無門関」の紹介の時に話されたのが、「直覚」を鍛えなさい。ここでの直覚は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感の次の「第六感」ともいえるもの。すなわち「勘」。
あらためて、哲学、最終日の講義を思い出す。
(毎日が夏休み52日目)
- 雑記2013
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